自分らしさなんてものは、うっすらと感じていればいい。
あとは周りが思い思いに感じ取るものなのだ。
自分らしくあろうとし過ぎると簡単に自分を見失う。
そして、肉体が変化し続けるのと同じ感じで、
自分らしさも変化し続ける。
変わらないのは本質だけだ。
ただ、少し厄介なのは本質はとても普遍的なものだということだ。
・・まぁ、そんなこといいや。
考えすぎると頭がおかしくなってくる。
さっきまたお気に入りの作品が出来上がった。
思わずニヤけてしまった。
作品のサイズを意識しなければ、
展覧会のDMに使えると思う作品が今回はいくつかある。
この半年近く、余分なものは削ぎ落としたいという思いで作業を進めていた。
なのでDMに使いたいと思える作品がいくつか出来たという事は、
僕の作品にある程度まとまりが出来てきたという証拠なのだ。
そういうことが今はとても嬉しい。
では続きやりま〜す。
朝、駅に行く時のこと。
僕の前を60㎝以上あるであろう髪の毛が歩いていた。
色は黒く、ピンとまっすぐ伸びており、それは見事な髪の毛だった。
その髪の毛は、頭、首、胴体、それと手足を2本ずつ付けていたのだが、
頭、首、胴体、足を足した長さが160㎝ほどで、少し短いような気がした。
部分としては最高なのに全体として見ると「惜しい」と思ってしまった。
そしてその直後、こう思った。
お前は一体その髪の毛の何を知っているというのだ。
短い身体を持っていたからといってお前に何の関係がある。
その髪の毛はモデルの仕事をしているかもしれないのだ。
なにが部分としては最高だだ。
おこがましいにもほどがある。
そういうお前は何なんだ。
半年近く美容室に行かずボサボサで、日々の手入れもしたことがない。
おまけに顔には年がら年中クマを作り、挙動も不信感を与える事が多い。
他人のことをとやかく言うよりまずはお前だろ。
ということで、仕事帰りに髪切ってきました。
もじゃもじゃパーマをかけてもらいました。
そしてすっきりしました。
5月にある個展のDM用の作品を作らなきゃと思い、先週末から作業を進めていた。
すると今週の火曜日になって「なんかこれ違う」という思いが強くなった。
でも、これが過ぎたらまたいい感じになると信じ作業を進めた。
そして水曜日の夜、「やっぱこれは違う」となった。
今週中に仕上げたいという思いがあったので、すぐに次の作品を作ることにした。
結構順調に進めていたのだが、
夜中の3時過ぎに少し気が緩み、右ひじが画面についてしまった。
絵具を盛った作品のため、それは致命的だった。
木曜日、僕はすこぶる不機嫌だった。
しかしその怒りは当然100%僕自身に向かうものだから、
不機嫌さを出さないようにと黙々と日中の仕事をこなした。
いや、逆に黙々とこなすことで不機嫌さが出てたかもしれない・・。
そして仕事帰りに新宿で画材と木材を買った。
昨日の金曜日は午前中にパネルの組み立て。
午後から絵を描き始めた。
いつもなら花粉症用の薬を飲めば、くしゃみ、鼻水はピタリと止まるのに
昨日は全然効かなかった。
おまけに下を向いての作業がずっと続いていたので首からの神経痛。
そして夕方には右下の親知らずまで痛くなった。
しかし、親知らずが痛くなったことで、少し僕の心は落ち着いた。
なぜかというと僕の右下の親知らずはストレスを溜め込んだ時に痛くなるから。
自分が無理をしてることを親知らずが教えてくれるのだ。
体力的に少し無理をしていたのは知っていたが、
精神的な無理がどこから来ていたのかわからなかった。
しばらく考えて「あっ!」と思った。
すべては展覧会のDM「用」に作品を作ろうと思ったことが原因だと。
DM用とか考えるから熱が入り過ぎておかしなことになっていったのだ。
気合いは入り過ぎると空回りする。
昨夜は久々に早めに寝ることにした。
おかげで今日は気分すっきり。
首は少し痛いが歯の痛みはない。
午前中から作品作り。
作品も余計な事を考えず、今作りたいものだけに集中出来た。
いい感じの作品になってきた。
ようやく心が解放されたので、
一週間ぶりにパソコンを立ち上げメールをチェックをし、
こうして長々ブログ書いてます。
さてと、
ビール飲もうっと。
ノサックというドイツ人の短編集を読んでいる。
「死神とのインタビュー」というタイトルに惹かれたからだ。
第二次世界大戦下の過酷な体験を、
寓話や神話、人間以外の生命からの視点などを用いたり、様々な手法で描いている。
過酷な運命を表現するには、現実からの1つの視点だけでは足りないと考えたのかもしれない。
運命は現実をいとも簡単に飛び越えてしまうから。
戦争という現実ともう1つの次元を行き来させることで、ぐいぐい本の中に引き込む。
戦争の悲惨さと生命というか魂そのもの、死と生を同時に強く感じさせられてしまう。
文章の中に「境界線」という言葉が何度か出てきた。
こちらでもあちらでもないその上を彼は孤独に一人歩き続けたのだと思った。
どうやってその苦難を乗り越えたのですかと尋ねたら、
乗り越えたかどうかなんて分かりませんよと答えるような気がする。
本文中にもそんなようなことが書いてあった。
でも、乗り越えようという強い意思は持っていたに違いないのだ。
一切合切が虚しさだけだったら、文章なんて書けないし、何も行動出来なくなる。
深淵の縁から滑り落ちて、飲み込まれるだけだ。
去年フランシス・ベーコン展を見た時にも同じようなことを感じたのを思い出した。
そしてその時も僕は勝手に勇気や元気をもらった。