不純美術思考

超純水。

不純物を取り除いた極めて純度の高い水。 

主に工業用に使われるものなので、人間の飲料用に作られてるわけじゃないから

味は関係ないのだが、飲んでもおいしくはないらしい。

 

何を言いたいかというと自然のおいしい水は不純物が入っているから、

おいしく感じるのだということ。

 

人間も完ぺきに近づき過ぎると味が無くなるというか不自然さを感じたりする。

自分の欠点だと思うものが、かえってその人の魅力を引き出してたりするものだ。

 

 

美術はどんどん純粋になっていくと一般大衆には向かって行かず

美術のための美術というか芸術のための美術というかになっていく。

 

最も純粋な美術とは純化され高い次元になったものを面白いと感じ取れる人達にしか

伝わらなくなるわけだ。

というか極めて純度の高い美術は面白いとか伝えるとかそんなことも全て飲み込んでしまうし、

また飲み込まなきゃならない。そして美術意外を受け付けないものにならなくてはならない。

そうじゃないと成立しなくなる。

 

でも高い低いって何だろう?

 

A君はB君より背が高い。でもA君はC君よりは背が低い。

A君は高くもあり低くもあるわけだ。

結局高いも低いも無いと思ってしまう。

 

僕は高くもなく低くもなく在りたい。

不純物が入った自然のおいしい水になりたい。

 

・・・否、僕にはもう充分に不純物が入っている。

 

このままでいいのだ!

 

・・・否、もっと不純物を取り除いたほうがおいしいかも。

 

最近はこんな事を考えながら制作してます。

 

しかし、すごくやっかいなのはこんなことを考えるきっかけになったのが、

純粋な美術に突進していった高松次郎さんの「不在への問い」という本に

とても感銘を受けたということなのだ。

そしてそういう人達に憧れを抱いてしまう。

 

ちなみにとてもぐっときた一行。

「進むべき方向は逆であっても、正反対であるだけにそれが一本の直線をなしている」

 

あぁ美術はとても奥が深い。そして面白い。

僕はどれぐらい足を踏み入れたのだろうか?

 

分からないことだらけだが、良いもの作りたいという思いだけは常に持っている。

 

そのことだけは一方的なんだ。

 

・・・それにしても変なブログばっかり書いてんなとたまに思う(笑)